2017年2月24日金曜日

2017.2.24 中村裕さんを送る会(仮)について(続報をお待ちください)

中村裕さんはすでに膀胱癌で一度手術していたのだが、一旦は元気になっていて、ただ最近は調子が悪そうだった、本当だったら2月のはじめにやる予定だった悟空の会(遠山陽子・中村裕・佐藤文香の3人句会)が裕さんが再入院中ということで延期になり、翌週13日、陽子さんから随分具合が悪いそうだからお見舞いに行きましょうとお電話をいただいて、15日に陽子さんと私、それに田中惣一郎でお見舞いに行った、その日の夜あたりに容体がまた悪くなったとのこと、我々の祈りもかなわず、お見舞いに行った4日後の19日のお昼に亡くなったとのことである。

お通夜・葬儀は簡単な形でご親族だけでなさったそうです。
少し落ち着いたら、弔いの会がおこなわれる予定です。
また決まりましたらおしらせいたします。
何かご連絡などございましたら佐藤まで。

というのをいつ書くべきか書かないべきかと思っていたのですがツイッターに訃報が流れているのを見つけたので書いておきます。

中村さんを直接知らない人でも、『俳句を遊べ!』の三橋敏雄俳句かるたバトルで審査員をしてくれた人だと書けばわかってもらえるだろうか。だとしたら、私は少し嬉しい。『俳句を遊べ!』の簡単な俳句の歴史も、裕さんに素案を書いてもらった。ありがとう裕さん。もちろん、それだけでなく。

思い出話は尽きないからそれはまたにして、

裕さんが書いてくれた、「悟空句会とは」→こちら

2017年2月22日水曜日

2017.2.22 スロベニア人のSpelaと草間彌生展に行ったあと俳句の話もした

何年か前、私は友人の誘いで清澄白河のゆるいフットサルチームに入っていた。そこに誰かの同僚らしくスロベニア人のイケメンがやってきた。その彼の友達が日本に観光に来るというので、フットサルメンバーの一人が気を利かせて、我々何人かとの飲み会セッティングすることにし、おでん屋に連れていくことになった。
スロベニア側はフットサルの彼(英語ペラペラだがわりと無口)、その彼女(英語ペラペラでコミュニケーション能力高い)と、ふたりの男友達2人(英語ダメ)。
日本側はフットサルのキャプテン(研究者なので多少英語できる)と副キャプテン(英語ダメ)、宴会部長(海外出張が多く英語で下ネタなどを言える)、帰国子女(一番英語ができると思われたがあまり喋らなかった)、あと、なぜか私(英語ダメ)。私は日本語ならよく喋るというのと、たぶん女子のなかで英語ができそうだと思われたのだろう。
そのときの私はお手上げで、副キャプテンとふたりで日本語を喋っていた。ほんとは喋りたかったけれど場を乱してはならないという気がした。ただ、彼女がスープが美味しいというので、出汁のとり方は主に3種類ある、と紙に雑な魚とか海藻とかの絵を描いて渡した。彼女は喜んでInstagramとfacebookのアカウントを教えてくれた。

そしたら、有名なタトゥーアーティストだった。
Instagramのフォロワー28万3千人だって。
この人

で、ただただ感心し、ずっとInstagramを見ているだけだったんだけど、ある日、今度陶器について学びに日本に行くけどどっかいいところはないか、とメッセージが来た。私は楽焼が好き、国立近代美術館の工芸館はどうか、友達がうりきり屋という器のお店で働いている、など、Google翻訳の力で伝えた。よかったらぜひどこかで会おうと言ってもらって、今日草間彌生展に行ってきた。

私ひとりでは心許なさすぎたので、五十嵐箏曲を誘って行った。彼女の名前はSpelaのSの上に^みたいなのがついていて、「シュペッラ」と発音するようだ。草間彌生については私よりよく知っているようだった。私は草間彌生といったらカボチャくらいしか知らなかった。大きな部屋一面に正方形の作品がずらっと並べられているのはくらくらした。「めまいがする」を調べて「dizzy」を見せたら、SpelaもGoogle翻訳をつかって「それが彼女の伝えたかったこと」と応じてくれた。1950年頃の、宝石の原石の中身のような作品や水玉の禊のようなビデオも面白かった。箏曲がどこに行ったかわからなくなったので、He is freedomと言っておいた。箏曲は出口で待っていた。

見終わってから東京ミッドタウンの虎屋cafeに入った。私はSpelaにおごることにして、そしたらなにか選んでほしいと言われたので、いちごあんみつと煎茶、大吟醸入り羊羹と抹茶を頼んで、どちらがいいか聞いたら、よりtraditionalな羊羹がいいと言ったのでそうした。酒の味がしたと言っていた。羊羹は小さい枡(虎のマーク入り)に入っていて、枡は持ち帰れるとのことだったのでそう伝えた。私のあんみつの無駄に甘いいちご味の寒天と求肥を味見させてあげて、ふつうのやつのほうがうまいと言っておいた。
Spelaにスロベニア語を喋ってみてもらったり、あなたのアートはすごい、とか私は印象派が好きで、とか、先日ナムジュン=パイク展に行ったとか言った。先日買ってもらった電子辞書フル活用である。箏曲はロシアアバンギャルドが好き、とか、このスロベニアの哲学者は日本でも有名、と言ったりしていた。Spelaはすでに見てあった書道展の作品の写真を順に見せて、読めるか、どういう意味か聞いてきた。読めるのも読めないのもあった。「凛」は説明が難しすぎた。Spelaが自分のトレードマークであるskullを漢字で書いてくれ、と言ったので、箏曲が骸骨と書いた。私は筆ペンを出して筆ペンでも骸骨と書いた。そして厳密には「頭」骸骨、と書いた。骸骨の絵も描いておいた。Spelaに普段絵につかうペンを見せてもらった。世界堂で買ったという。
箏曲にあげようと思って、所属している同人誌「鏡」の最新号を持っていたのだが、箏曲にはまた今度あげることにして、Spelaにあげた。いくつか解説してと言われたので、箏曲が「とけて固まる昔の輪ゴムお正月」を指差し、「melting old rubber, happy new year!」と言った。私は、ゴム and ニューイヤー is コラージュ、ハイク is ナンセンスと言った。箏曲もハイク is not insistenceと言った。「春近しパジャマたくさんみな横縞」については、自分で「もうすぐ」と「横縞」を調べて「almost spring, many pajamas all Horizontal stripes」と言った。いろいろ間違っていそうだが伝わったようなのでいいや。

サインをしてと言われたので「また美術館行かうまた蝶と蝶」を書いておいた。箏曲が、「Let's go to the museum again, and again, butterfly and butterfly」と訳した。これは俳句で私の代表作だと言っておいた。

最後に箏曲がSpelaに、今日の何が面白かったか聞いたら、電飾が施されていた鏡の部屋が面白かったと言った。すると箏曲は、彼女があなたにあげた雑誌の名前はmirrorです、と言ってくれ、そうだそうだ、Today is mirror dayと私は言ってまとめたつもりになったが、あとで考えたら別にそうでもなかった。チケットを取るとき押し間違えて1ヶ月滞在することになった(嬉しい誤算と彼女は言う)Spelaと、また美術館にでも行くかもしれない。Spelaは陶器づくりに行ったり、成田の方にあるタトゥーOKの温泉に行ったりすると言っていた。

Spelaは自分でつくった陶器のキーホルダーをくれた。 調べて、Easy to graspと言ったら、悲しいときに握って、と言われたので、握って見せてpower!と言った。帰宅して握ったらpowerが湧いた。

2017年2月16日木曜日

2017.2.16 俳句の「とりあわせ」との出会いと『俳句を遊べ!』の打越マトリクス①


もう何千回も話しているが、私が俳句と出会ったのは中学1年生のときだ。うちの中学に1年だけ非常勤講師で夏井いつきさんが来ていることに目をつけた地元テレビ局が、「中学生が俳句を通していかに変わるか」といったドキュメンタリーが録りたいというので、普段夏井さんに教わっていないクラスが選ばれた。私たちの1年A組だった。
当時の私は客観的に見ても目立ちたがりの変人で(天パーで眼鏡で小太りだった)、「テレビが来る」「俳句面白そう」と個人的に盛り上がっていた。
松山なのでほかのクラスメイトは「俳句慣れ」していたけれど(これは「俳句嫌い」に近い)、私は去年引っ越してきたばかりだからまだ俳句が珍しかった。そのへんの話は大人になるまでに読みたい 15歳のための短歌・俳句・川柳②生と夢に書いたので興味があれば読んでみてください。

そこではじめて教わったのが「とりあわせ」というやり方だった。私は教室のうしろのポストへの投句数でクラス1位になるほどどんどんつくり、結果とりあわせにはまったけれども、その授業当時はあまり「とりあわせ」の良さも意味もわかっていなかった、と今になってみるとわかる。
去年中学1年のときの俳句手帖が出てきた。そのときのまずまずの句といえば

  胃を病んで今日六羽目の目白かな
  また今朝も猫のあいさつ春近し
  絵の中の音符に雪が積もりけり

などであって、これらはせっかく教わった「とりあわせ」のやり方(二句一章)など使わずに、自分の持っている言語能力と感性だけでどうにかしたビギナーズラックだ(まぁ二句目は一応中七で切れてはいるが)。

でも、その俳句の授業に初期に提出した句で

  秋風や25cmのスニーカー

というのがあった。これは「とりあわせができている」と褒められた。そのあともベタベタな句を書くと、「この前のスニーカーみたいな句をまたつくってよ」とコメントをもらったのを覚えている。

なぜこの句をよく覚えているかといえば、これはうちの母が書いたものだからだ。うちの母は当時同じ中学で非常勤講師をしており、国語科研究室で夏井さんと机を並べていた。母は、「とりあわせ」をちゃんと頭で理解して、腕試しくらいの気持ちで、この句をつくったはずだ。これ出してみなよ、と言われ、私も自分の足のデカさは持ちネタだったので面白いと思って出した。そしたら褒められた。単純に嬉しかったのでまた俳句つくろーと思った(このへんのプライドのなさが私である)。

それ以降も、クラスでたまたま何も考えずにつくった子が、その子はよく意味がわからないまま夏井さんの素晴らしい鑑賞によって褒められ、私の句はそこまででもない状態だった。初心者にとって、「とりあわせ」というのは、鑑賞者がいてはじめてわかるやり方だと言ってもよい。急にいい組み合わせを、しかも考えて思いつく人というのは、もともとよっぽどセンスがあったり、別の芸術ジャンルでその方法を知っている人だ。『俳句を遊べ!』の生徒2人というのは、特待生だと思ってもらえればいいと思う。

「とりあわせ」をはやく理解するコツは、「とりあわせ」の句の良質な鑑賞にたくさん触れることだと思う。授業で友達の書く句に対して、見事なコメントをほどこす夏井さんがいなければ、その方法が果たしてあっているのかすらわからなかったはずだ。(だから、5音の季語とそれと関係のない12音のフレーズを考えよう、と夏井さんの方法だけ真似しても、なかなか俳句の授業はうまくいかない。鑑賞のプロ・夏井さんありきのやり方だからだ。)
また、私は書いた句を母親に見せた。母親はふつうに教養のある大人な上、国語科研究室で夏井さんからいろいろと俳句の指導法を教わっていたから、今となっては覚えていないけれど、私の書いたもののなかで「とりあわせ」になっているものとなっていないものを見つけたり、ありきたりでないものを面白いと指摘しただろう。テレビ用の授業が終わったあと、私は「俳句の缶づめ」というファックス句会に精力的に投句するようになって、そこでようやく褒められる作品の研究をするようになり、「とりあわせ」についてもなんとなくよさがわかってきたのだと思う。

  桜咲くかに道楽のかに動く
  酸性の風待月や犬の声
  金魚鉢雲のでき方調べをり

これらはたぶん中学2年生になってからの句で、「とりあわせ」を飲み込むまでに半年ほどを要したことがうかがえる。私が「とりあわせ」の意味がわかって考えて書けるようになるまで俳句を書き続けられたのは幸運としか言いようがない。

(少し話がそれるが、面白い俳句が書けるようになっていくということは、俳句というジャンルで作品を今新しく書くにあたって、どのへんが的でどういう矢を放つ必要があるのか、を理解していくことだと思う。)

ようやく俳句の意味がわかってきたころ、中学2年か3年のとき、国語の研究授業で連句をやった。花の座だとか縛りがあるのも魅力的だったし(どこで何のお題が出るかは忘れたが)打越というのは面白いと思った。大学で俳諧の授業をとったときにも思ったが、「直接関係はないけどなんとなくいい雰囲気」の言葉を探す、というのは、俳句の「とりあわせ」と似ていると思った。(つづく)

※私は「とりあわせ」を「関係のないふたつのものを一句の中で組み合わせるやり方」として『俳句を遊べ!』中で紹介しています。二物衝撃的で二句一章的な「とりあわせ」です。

2017年2月14日火曜日

2017.2.14 昨日のこと

昨日は市役所に行き婚姻届を出して、警察署に行き免許証の名字と本籍を変更した。私の今までの本籍地は父の実家がある香川県だったのだが、今住んでいる千葉県に変更ということにした。今までの人生の三分の一ずつ住んだ兵庫県、愛媛県、東京都をスルーしたところが少し面白い。市役所で国民健康保険の手続きも行ったが、窓口の隣のおじいさんがどうも後期高齢医療に対して文句を言いに来る常連の人のようだった。9ヶ月間ではあるが松山市役所の臨時職員として高齢福祉課で医療保険の係をやっていたので懐かしいものを見る思いだった。ソファに座って待っていたら、家に届いた封筒をそのまま持ってきたおばあさんが隣に座った。職員が封筒を開けて内容を確認していた。それもよくやったことである。千葉なので職員もおじいさんもおばあさんも共通語なのが松山と違うところだ。私はあそこで伊予弁がだいぶうまくなった。

そのまま夫とふたりでパナソニック汐留ミュージアム「マティスとルオー」展に行った。三菱一号館の「オルセーのナビ派展」に行きたかったが美術館というものは大概月曜は休みなので、月曜やっている東京の美術館で調べたのである。ルオーもマティスも有名な作品は知っていたがそれくらいだった。ルオーの作品が多かったが、後半はもうルオーだなぁという感じで、むしろ1907年ごろの輪郭線の薄いさらっとしたのが見られたのがよかった。それよりマティスの切り絵になる前のが面白かった。べたべたと描かれて遠近がよくわからなくなっている「窓辺の女」などが気に入った。ふたりの師であるモローという人の、「モロー」という名前が気に入って繰り返し唱えた。
ルオーの絵をコレクションしたという日本人の画商・美術評論家が夫と同じ名字で、調べてみるとその妻も随筆家だというので親近感が湧いた。新しい名字の始まりとしてはいい偶然だと思った。とはいえ本名は基本的に非公開、佐藤で書いていくつもりなので、これを読んで私の新しい本名がわかった方もWikipedia等に追記しないでください。
記念写真を撮るコーナーがあり、赤ちゃんを連れたお母さんがいたので、「よかったらお母さんと一緒に撮りましょうか」と言ったら「マスクしてるんでいいです」と言われたが、夫が記念に図録を買っている間私がうろうろしていたからか「やっぱり撮ってもらってもいいですか」と言われ、もちろん写真を撮ってあげた。我々も一人ずつ撮影した。

夜は近所のお店に行った。クリスマスイブに行って美味しかったのでまた行こうと言って行ってみたが、料理の味は相変わらずいいのにグラスワインがハウスワインの一種類しかなくなっていて、それが非常に不味く残念だった。食べ終わるというときに、入院している年上の友人の体調が思わしくないという電話が入り、近日中にお見舞いに行くことになった。芸術的でエッチな写真集でも買って行ってあげないと、と思った。
プリンとチョコレートを買って帰宅して、いただいたいいワインを開けて1杯だけ飲み、風呂に入って寝る用意をしてから指輪を交換していないことに気づいた。結婚指輪をするのを結婚式まで待つか役所に届けた日にするかはネットで調べたらどちらもあるとあったので届出日にしようということになっていたのだ。布団の上に正座をし、指に押し込みあった。私の指輪は小さく作りすぎて、結婚式当日に抜けるかが甚だ怪しい。なお、婚約指輪は私の意志で省略した。

私からのどういう家庭にしたいかという問いに対して、夫は楽しいのがいい、食べ物が美味しいのがいい、健康がいいと言った。食べ物については私の担当なので努力あるのみだ。私としては、一般的な楽しい家庭像を目指すのでなく、我々らしいやり方でやった結果たまたま楽しい家庭のようになってしまったりするのを面白がるようなのがいいだろうと言った。

2017年2月11日土曜日

2017.2.11 オチ不要派

最近少しテレビを見るようになったのだけど、サザエさんでさえちょっと見てられないときがある。こうかと思ったが実はそうじゃなくてこうでした、とかいうのでさえ、そのスジが見え始めた途端つらい気分になる。短い話でも長い話でも、事件は起こらないのがよく、オチはないのが好ましい。ストーリーでドキドキしたくない。いや、そういうのは、ストーリーでドキドキしたい人のためのエンタメとしてはいいのだろう。私が悪いのだ。でも私みたいな人も少なくないのではないかと思う。ありがたくモヤさまとブラタモリを見る。最近見ていないが都バスで飛ばすぜいはまだやっているのだろうか。

高橋揆一郎『雨ごもり』を読んだ。短編集。どれも面白かったが、とくに最後の「羊皮筏」がよかった。日中作家交流の一環で何人かで中国へ行ったという話で、日記にも近いけれど、葛藤やぐっと思ったことが厚塗りで書かれているのがよいのである。オチはない。


2017年2月8日水曜日

2017.2.8 肩こり

年々ひどくなる肩こりに、いやいや肩こりの人なんてたくさんいるんだし、と思っていたんですが、毎日頭痛と吐き気に悩まされるので年始に実家の近くのマッサージ屋さんに行ったら、「重症です」「そりゃ吐き気もしますよ」「このままここに入院させたい」とまで言われ、それ以後もひどくなって、でも引っ越してからちゃんと近所でジムを探さないからいけないんだし、とかマッサージ屋さんも鍼灸院もどこがいいかわからないし、とか思っていたんですがついに何をしてもダメでどうしようもないので整形外科に行きました。

筋肉の硬さ?かなんかを測ったら右が32、左が26で、30を超える人はあまりいないらしい。首はストレートネックというやつで姿勢が悪い、というのはなんとなくわかっていたが。腰を押されてわかったことには腰も痛い。腰も痛いんだが肩こりがひどすぎて腰の痛みに気づかなかったらしい。そして関節が固まりまくっているという。筋肉をほぐす飲み薬もこのレベルだと効かないらしい。腕やら耳のうしろやら、押されるとこことごとく痛い。毎日湿布を貼っているので背中はかぶれるし、自分が悪いというか災難というかなんというか。とにかく今運動とかすると危険なのでストレッチからやらないといけません。
肩や首の筋肉に対して頭がでかすぎるのが原因のひとつではないかと思う。

肩こりや鴨が歩いて水を出る  佐藤文香

2017年2月2日木曜日

2017.2.2 わたしの俳句入門

こういうツイートがありました。



わたしは『俳句を遊べ!』という入門書でしゃべった(まとめてくれたのはライターの与儀明子さん)わけですが、実は通読した俳句入門書は1冊もありません。何冊かは持っているし人にすすめたりもするけど。

わたしは本から知識を得るという経験を、ほとんどせずに人生をすごしてきました。
学校の教科書はもちろん読んだし学校の勉強はしたけど、わたしは本を読んだのではなく、「授業を受ける」ことによって学んできました。自分で言うのもなんですが、わたしは他の人より授業を受けることが得意です。自分が知らないことをわかりやすく教えてくれる人が大好きだからです。

俳句は、句会で学びました。中学時代は夏井いつきさん、高校時代は俳句部の友達と「櫟」同人のみなさん、大学時代は櫂未知子さんとまわりのみなさんに、いろいろ教えてもらいました。言われたことは理解して、作品で実行したと思います。何か言われても曲げられない自分、なんていうものは、そんなになかったです。おかげで型やリズムが身につきました。

あとは、大学時代に大歳時記の例句入力のバイトで句を打ち込んだり、ある俳句雑誌の句集紹介欄を1年ほど編集部名義で担当したりして、受動的にいろいろな俳句を読むことになったのが、本を読まないわたしにとって大変ありがたかったです。

大学を出ていったん松山ですごし、そのあと東京に帰ってきてからは、友達との句会で話して、俳句のことを考えました。みんなわたしよりいろいろなことを知っていて、ここでわたしは、みんなと考えることで、知識はもちろん、考え方を身につけました。
そのころ人に教えるようになって、いつも教え方を考えていました。ルールとか言わなきゃいけないことを最低限にして、どうすればある人の発想が面白くなるかを考えることは、自分が俳句を書くうえでも役立ちました。

読んで学んだといえるのは、池田澄子と三橋敏雄の考え方くらいです。穂村弘もそうかも。

だから、『俳句を遊べ!』に書かれていることのほとんどは、わたしが句会で誰かに教えてもらったことか、句会でみんなで考えたことか、池田澄子か三橋敏雄か穂村弘が書いていたことか、あとは自分が考えたことです。

これからも、みなさん。いろいろ教えてください。で、いろいろ考えていこう。

2017年2月1日水曜日

2017.2.1 アンソロの話2

2月になりました。選句と並行してやり始めたのは作品の並べ替えです。俳句を束で読むとき、季節があっちゃこっちゃいってると気になる人も多いと思います。私はけっこう気になります。そこで、選んだ作品を季節順に配列するという作業をやります。既刊句集がある方は、句集までとそこからで分けて、季節順にします。
先日五十嵐箏曲くんに手伝ってもらっていると書いたのはココで、すべての俳句について「初春」「仲夏」「晩秋」「三冬」「新年」「無季」というように、18分類にしてもらっているのです。だいたい皆さん季節順に並べてくださっているのですが、年代順の季節順だったりもするので、並べ直すことにしました。人によっては得意な季節、苦手な季節がある人もいるし、そもそも季節にこだわらずつくっている人もいますから、場合によっては季節とは関係ない並べ方になる人も出てくるかもしれません。柔軟に対応したいと思います。大変です。

しかも俳句アンソロはページあたりの作品数が短歌とは違います。トピック作品とその他の作品とを分けて、ページあたり大きい字で7句、下に小さい字で14句、と考えています(ここはデザインの都合で変わるかもしれませんが)。なので、どの句を大きく取り上げるかも考えながら並べます。超大変です。
実は、その句がその人の(今までの)代表作かどうかは、あまり考えずに選んでいます。

選句については、最近提出された方を除けばだいたい終わったので、2月は並べ替えをしながら、いよいよ公募作を読んでいきたいと思います。たくさんあるので大変ですが、楽しみです。せっかくなので、最終候補に残った作品とかも、どこかで発表したりできるといいなと思っています。

昨日、前書きを書いてみました。タイトルも決まりそうです。タイトルは公募しましたが、結局私が考えました。

アンソロジーなどという穢らわしい時代は死んだ、それよりもさきに大正時代のすばらしい整形技術があった、役割の花のひとつかみ、殴打した六月の比喩の主語。
               瀬戸夏子『約束したばかりの第一歌集と星と菫のために』「駆使」より